【書評・要約】ロッテを創った男 重光武雄(辛格浩)

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【書評・要約】ロッテを創った男 重光武雄(辛格浩)

松崎隆司さんの ロッテを創った男 読みました。

松崎隆司さんは、経済ジャーナリストとして独立し、企業経営やM&A、雇用問題、事業承継、ビジネスモデルの研究、経済事件などの取材を手掛けています。

ロッテは、日本企業で、創業者は、韓国の人らしいということを聞いたことがありました。

韓国に行ったときには、ロッテは、日本以上に幅広く経営されていることに驚きました。

ロッテホテルロッテマートと呼ばれる大きなスーパーも人気のようです。

ロッテ、ロッテの歴史、創業者について興味のある方、一緒に読んでいきましょう!

世界最貧国の祖国から来日し、栄光を手にした稀代の経営者・重光武雄は、巨額資金を韓国事業に投じ日韓の経済発展段階ギャップを利用した「タイムマシーン経営」を実践して巨大財閥を築き上げた。1997年のIMF通貨危機後は、韓国での財閥ランクを当時の10位前後から一気に引き上げることに成功している。

紹介文

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お父さんひどい、おじさんすごい!

創業者 重光さんは、若い頃から、とても苦労しています。

家系は、いいらしいですが、家は貧乏でした。

え、どういうことですか??

古い韓国の慣しで、家系がいいのに、お父さんが働いているのは恥という認識があったようです。

そのため、お金がなくてもお父さんは、働きませんでした。

そのため、家にお金がありませんでした。

そして、重光さんのお母さんが、猛烈に働いていたようです。

一方、おじさんは、親戚内でも異端児的な存在で、ガツガツ働いていました。

ビジネスセンスがあり、成功して、重光さん含め兄弟の学費を全て面倒見ていたようです。

ちなみに、重光さんには、4人の弟と5人の妹がいました。

三男の弟さん 辛春浩さんは、なんと辛ラーメンで成功しています!

もしかして、辛ラーメンの辛は、辛春浩の辛ですか??

重光さん自身もおじさんには、いろいろとお世話になりました。

まず、家にお金がないため小学校に入れない状況でしたが、おじさんが強く教育の大切さを主張して、入学することができました。

5年生からは、町の小学校へ編入します。

町の小学校は、片道10キロありますが、バス代が払えないため、徒歩で往復4時間かけて通います。

そして、帰った後は、牛の世話をしていたそうです。

さらに、6人の弟や妹の面倒を見ていました。

お弁当を持っていくこともできず、お腹を満たすことばかり考えてしまい正常な思考が不可能だったとご自身でも回想されています。

中学への進学をあきらめていた重光さんに手を差し伸べたのも伯父でした。

「子供はいくらでも産みなさい。勉強は私が責任を持つ」

伯父さんから、重松さん両親へ

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自分で切り開く

おじさんの助けは、大きかったと思いますが、重光さん自身の努力や切り開く力もすごいです。

先述したとおりに、往復4時間の通学後に、家の手伝い、弟たちの面倒をみていました。

羊技術指導員の見習いとして働いていた頃から、日本へ留学することを考え始めます。

務めていた羊の牧場の管理者(の奥さん)に、日本に渡りたいので紹介をお願いしたり、地元の日本人の警察に推薦状を書いてもらったりしていました。

日本に渡る際にも港で、渡日を反対していたお父さんに捕まりますが、隙を見て逃げ出しました。

日本側の港でも警察に捕まり、隙を見て逃げます。

その後、福岡、東京でも警察に捕まりますが、都度場所を変えて、逃げます。

切り開いてる感じしますね!

仕事を探し、住む場所を整え、ようやく学校に通うことができるようになります。

当時目指していた小説家になるために、勉強していましたが、文系学生は、徴兵されるという方向だったため、理系へ進みました。

そして、昼間は仕事、夜は勉強という生活をしばらく続けます。

勉強同様に、仕事も真面目に一生懸命していたことが評価され、務めていた質屋の店長にビジネスを持ちかけられます。

店長が、重光さんに全財産に近い今だと数億円ほどの投資をして、油工場を始めました。

しかし、時代は、太平洋戦争の暮れであり、B29に襲撃され、工場は焼けてしまいます。

あきらめずに、場所を移動し、工場を再開するも、再びB29に襲撃され焼けてしまったようです。。

老人に恩返しをしたかった重光さんは、戦後すぐに油脂製品を手掛けて成功しました。

大切なのは、根気強さと変化への対応でしょうか!?

荻窪にあった当時の”新興マーケット”の近くに工場をかまえていたようです。

”新興マーケット”は、今では、”タウンセブン商店街”として生まれ変わっているようです。

重光さんは、当時を振り返り、大事なポイントを3つ挙げています。

  • 時宣に適った商品の開発
  • 需要を機敏に読む市場把握力
  • アイデアを果敢に実行に移す推進力

重光さんの商品は、作れば作るほど売れ、老人に恩返しできたようです。

さらに、石鹸などの油脂製品に加え、化粧品を手掛けていきます。

当時、会社員の月収が、200円くらいでしたが、重光さんは、4〜5万円稼いでいたようです。

そのうち、競争相手が増えたため、化粧品からガムに進出していきます。

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感想

重光さんは、本当に苦労して努力したのだと感じました。

重光さん自信も成功の秘訣に一つに、「一生懸命に働いたこと」をあげています。

(残り2つは、「誠実であること」「嘘をつかないこと」です。)

一生懸命頑張ります!!

さらに、一生懸命頑張るとともに、反対されても自分の目標を実現する気持ちも強かったのだと感じました。

韓国と日本の歴史にも多く触れていて、いろいろと勉強になりました。

最後まで、お読みいただき、ありがとうございました!

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